歴史・文化

歴史あふれるまちがここにある −三原−

三原市は、御年代古墳をはじめとする縄文・弥生・古墳時代の遺跡が数多く残されている事からも分かるように古くから人々の生活が営まれ、近畿と九州を結び四国と連絡する海上交通の要衝として栄えました。
平安時代には、楽音寺や1967年まで続いた杭(久井)の牛市など今に続く歴史資源が創設されたほか、沼田庄や杭の庄などの荘園が経営され穀倉地として栄え、鎌倉時代から戦国時代にかけては、小早川氏が台頭し、棲真寺や佛通寺が創建されたほか、堀城、高山城や新高山城が築城されました。
そして、戦国武将毛利元就の三男で竹原小早川氏の養子となった小早川隆景が、17代当主として沼田小早川氏を相続し、両小早川氏を統一すると、1567年に三原へ築城し、現在の三原市の礎を築きました。
その後、小早川氏以後、福島氏、浅野氏の城下町として繁栄して明治維新を迎え、明治時代以降は、三原地域は工業都市として、本郷・久井・大和地域は米作地域として発展し、近年は、陸・海・空の高速交通の結節都市としての役割も果たしています。

郷土ゆかりの人たち

出展:編集・発行 三原市立図書館・三原歴史民俗資料館
   「郷土三原ゆかりの人々」平成15年11月発行

愚中和尚ぐちゅうおしょう 1323(元亨3)年〜1409(応永16)
室町時代の禅宗の僧侶で、三原に「仏通寺」を建てた人です。美濃の国(岐阜県)に生まれました。なまえは周及といいます。
13歳のとき京都で夢窓疎石というえらい僧侶について勉強しました。18歳のころ、中国(元という国)に行き、即休契了という僧侶のもとで7年間修行をしました。その後、日本に帰ってからは、山の中できびしい修行をして、りっぱな僧侶になりました。
そのころ、安芸国沼田荘(現在の本郷町)をおさめていた小早川春平に招かれて、愚中和尚は現在の三原市高坂町に「仏通寺」を建てました。当時の仏通寺には多くの寺院があり広大なお寺で、全国でも有名な禅道場として知られた、臨済宗仏通寺派の大本山です。
僧侶で画家でもあった雪舟がつくったと伝えられる庭園などが、今でも仏通寺に残っています。
仏通寺という名は、中国で修行したときの先生であった即休契了の、もう一つのなまえである仏通禅師からつけたものです。
巨蟒橋
小早川隆景こばやかわたかかげ  1533(天文2)年〜1597(慶長2)年
戦国時代の終わりころに活躍した武将です。
毛利元就という大名の三男で、子どものときの名を徳寿丸といいました。
12歳のときに竹原(現在の竹原市)の小早川家の養子になり、のちに本家の沼田(現在の本郷町)小早川家のあとを継ぎ、小早川家を一つにまとめました。
その後、本郷の新高山城を中心にして、兄の吉川元春とともに各地の戦に活躍し、父の元就や甥の輝元を助け、中国地方をはじめ四国、九州まで勢力をのばしました。
1567(永禄10)年に、隆景は瀬戸内海で活動するために三原に城を築き、本郷の新高山城から三原城に活動の中心地を移しました。
現在の三原城は、天主台、舟入櫓の石垣など一部が残っていますが、昔はとても大きな城で、櫓が32、城門が14ありました。城の姿も海に浮かんでいるように見えるので、「浮城」とも呼ばれました。
豊臣秀吉や徳川家康もこの三原城を見て、そのすばらしさに感心したといわれています。
三原城天主台跡
浅野忠吉あさのただよし 1547(天文16)年〜1621(元和7)年
戦国時代から江戸時代はじめのころ活躍した人で、三原浅野家の初代三原城主です。忠吉が生まれたところは、尾張(愛知県)の国です。
はじめは織田信長の家来でしたが、従兄弟の浅野長政が大津(現在の滋賀県大津市)の城主になったとき、長政をたすける家老になりました。
その後、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めたとき、長政に従っててがらをあげ、また、長政なきあと藩主浅野幸長(長政の子)をもりたてて、戦国の世をのりきりました。
1600(慶長5)年、幸長は紀伊(和歌山県)37万石の領主となり、忠吉は熊野新宮(現在の和歌山県新宮市)の2万8千石の城主になりました。
1613(慶長18)年に幸長が亡くなりましたが、後継ぎの子はいませんでした。忠吉は幸長の遺言により幕府にお願いして、備中(岡山県)の足守藩主である幸長の次弟の長晟を後継ぎとして認めてもらい、紀伊の浅野家をまもりました。
1619(元和5)年に、長晟は安芸・備後(広島県)42万石の広島城主になりました。その後、忠吉も新宮から広島に移り、広島浅野家の第一家老として、三原城主となります。また、これまでの働きにより、2千石ふえて3万石の城主となりました。
1621(元和7)年、75歳で亡くなりました。広島城西の妙頂寺に葬られています。
三原城と城下町
楢崎正員ならざきまさかず 1620(元和6)年〜1696(元禄9)年
江戸時代の学者です。
家は、三原でみそ・しょうゆをつくり販売していましたが、正員の代には薬屋をはじめました。よく働いたので、仕事もうまくいきました。
生活も落ち着いてくると、自分の無学が気になり、人間としての生きる道を勉強したいと思うようになりました。そこで中国の学問の本など買って勉強しましたが、数年かかっても本当の意味がよく分かりませんでした。
54歳のとき京都に行き、えらい学者であった山崎闇斎について学び、よく努力して優秀な成績をおさめました。
これを知った4代三原城主の浅野忠義は、正員をしばしば城中にまねいて学問の講義をさせ、とくべつなもてなしをしました。
60歳のとき、大阪の薬屋に支払いの残金を持って行ったところ、主人が代わっていてよくわからず、引き継いだ人にどうしても受け取ってもらえなかったので、そのお金で石の鳥居をつくり、西宮の八幡宮に寄付したといわれています。
62歳になって須波に住み、すきな本を読むという生活にはいりました。そのころの須波の海岸には波止場がなかったので、波風のはげしいときには舟が帰れず、ときにはてんぷくすることもありました。これを知った正員は自分のお金で波止場をきずいて、村人に大変喜ばれました。この仕事をほめたたえた石碑が、今も別荘跡に残っています。
西町の大善寺にあるお墓は、県の史跡になっています。
楢崎正員と須波の波止場
並木宗輔 なみきそうすけ  1695(元禄8)年〜1751(寛延4)年
江戸時代の、浄瑠璃・歌舞伎の作者です。
三原の成就寺の僧侶で、名まえは断継といいました。
30歳ころに僧侶をやめ、大阪に出て浄瑠璃・歌舞伎のものがたりを書く作者になりました。
はじめは、豊竹座という劇場の作者として活躍し、作品の評判がよく多くの名作を残しています。この時代には、ほかの作者と共同して書いた作品もたくさんあります。作品の内容は、全体として悲しくて暗い感じのものが多くみられました。
その後、竹本座の作者になると、今までの暗さがいくらか和らいだ作品を書いています。
宗輔の最初の作品は、「北条時頼記」です。そのほか代表作には、「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「源平布引滝」などがあります。
※浄瑠璃=三味線に合せて語る物語
※歌舞伎=江戸時代にひろまった日本独特の演劇
青木充延 あおきみつのぶ  1760(宝暦10)年〜1816(文化13)年
江戸時代後半の学者です。三原に生まれ、家は代々商家でした。
幼少のころから学問がすきで、成長するにつれて詩をよく作り読みました。
9代三原城主の浅野忠順から深く信頼されていた充延は、三原西町の役人を命ぜられました。
その後、諸藩のようすをさぐるよう極秘の命令を受け、ひそかに各地をまわって視察し、報告の文書をだれにもわからないように紙ひねりして荷物にしばって送り、世間にあやしまれないようにしていたといわれます。
広島藩が『国郡志』の編さんをはじめたときに、三原については、それまでの研究活動がみとめられた充延が御用係に命ぜられ、『三原志稿』の作成をすることになりました。この仕事は、完成されないまま充延は亡くなりますが、充延の子の充実があとをひきつぎ完成させました。
※国郡志=藩内の町や村の自然・歴史・産業・人物などを著した書物
※三原志稿=三原のようすをくわしく著した書物
三原志稿
定屋和尚 じょうおくおしょう  1768(明和5)年〜1851(嘉永4)年
江戸時代の終りころ、沼田川に初めて橋をかけた僧侶です。
御調郡三原町(現在の三原市)で生まれました。13歳のとき、田野浦村(現在は田野浦町)にある双照院の住職満目和尚の弟子になりました。
1799(寛政11)年に満目和尚が亡くなり、定屋和尚は32歳で双照院の10代目の住職になりました。
定屋和尚の生涯は、毎日修行・托鉢で、質素な生活の中で満目和尚をよく助けました。
江戸時代の沼田川には橋はなく、定屋和尚は日頃から沼田川に橋をかけることを夢みていた満目和尚の意志を継いで、1834(天保5)年に、長さ170m、幅4mの板橋を建設しましたが、洪水で橋は流されました。
1850(嘉永3)年にふたたび橋をかけ、和尚の名をとって「定屋橋」と命名されました。橋の南西側の堤防道のそばには、和尚の業績をほめたたえた「定屋和尚架橋之碑」があります。
現在の定屋大橋は、6度目にかけかえられた橋です。
※托鉢=僧侶が鉢をもって家々をまわり、お経をとなえてお金や食べ物をもらって歩くこと。
定和和尚と定屋橋
宇都宮龍山 うつのみやりゅうざん  1803(享和3)年〜1886(明治19)年
江戸時代から明治にかけての学者で、糸崎に港を開いた人です。
伊予(愛媛県)で生まれ、幼いころ父が亡くなりました。
早くから学問の道を志し、大洲(現在の愛媛県大洲市)で学び、その後大洲藩のすすめにより江戸に出て勉強しました。
このころ、母が手足の不自由な難病にかかり、龍山は20年間にわたり介抱しました。その親孝行ぶりは、誰もが頭の下がる思いでした。
1838(天保9)年に母が亡くなり、龍山は翌年から尾道に住むようになりました。
42歳のとき、龍山は11代三原城主の浅野忠助にたのまれて、城内の明善堂(学校)の先生になりました。また学問だけでなく、藩の政治にも参加し活躍しました。
とくに糸崎の松浜港の開港については、どうしても必要であるとの意見を出し、ついに1864(元治元)年に工事がはじまり、翌年に開港することができました。
開港以後、北前船なども寄港するようになり、三原の商人もここに店をかまえ、町は繁栄していきました。
龍山は、現在の糸崎港の基を開いたわけです。
1868(明治元)年に三原を退いてからは、尾道に私塾「朝陽館」を設けて子弟を育成しました。
宇都宮龍山と松浜港
本因坊秀策 ほんいんぼうしゅうさく  1829(文政12)年〜1862(文久2)年
江戸時代終り頃の囲碁の棋士です。因島(現在の因島市)の桑原家に生まれましたが、父は三原の安田家から因島に来た人です。
6歳のとき、囲碁の才能を尾道の橋本吉兵衛という人に見出され、9歳で三原城主の浅野忠敬にみとめられ、江戸で本因坊丈和の弟子になりました。
丈和は「150年来の碁豪(囲碁の大物)なり」とほめたそうです。 弟子の時代には、三原の安田姓を名乗っていました。13歳のとき師から名を秀策に改名され、2段に昇進しました。その後、14歳で3段、15歳で4段と進み、20歳には6段になりました。
21歳のとき、棋士たちの最大の願いである御城碁(幕府が毎年11月17日に江戸城で行う囲碁の会)に、初めて参加が認められました。以後、この御城碁では敗れたことがなく、12年間に19回対局して19連勝の記録を達成し、こんな棋士はもう出てこないと、みんなおどろきました。
また、秀策は郷里の父母にもよく仕え、勉学にも励んだことは、彼が遺している30通あまりの手紙でよく分かります。
秀策は本因坊を継ぐことになっていましたが、34歳の若さで病死したので実現しませんでした。しかし、碁聖(碁の名人)と称えられ、本因坊と呼ばれています。そして彼が定型化した布石の型は、秀策流として現代に伝えられています。
※本因坊=現在では、囲碁の本因坊戦での優勝者にあたえられる称号。
長谷川桜南 はせがわおうなん  1829(文政12)年〜1885(明治18)年
江戸時代終りから明治にかけて活躍した学者です。
三原城主浅野氏の家臣の子として、三原に生まれました。名は恭平といいます。子どものころから学問が好きで、学者の宇都宮龍山のもとで勉強しました。後に江戸に行き、幕府の学校の昇平黌(昌平黌)に入りました。また古賀侗庵という先生からも教えを受けました。
2年後に三原に帰り、城内の学問所である明善堂の先生になりました。
明治になって学制が公布され、学区取締の役を命ぜられます。
後にこの役を退き、桜南舎を開いて子弟を教育しました。望月惇一、花井卓蔵、高楠順次郎、山科礼蔵らは、その門下生です。
その後、松永(現在の福山市松永町)に招かれ、浚明館を創立します。ここでも多くの門下生が学んでいます。
1885(明治18)年7月5日病に倒れ、子弟に惜しまれながら亡くなりました。57歳でした。
三原市本町の香積寺に葬られています。
著書に「近世三家詩抄」があります。
※明治の学制=日本初めての学校制度。全国を大・中・小学区に分け、とくに小学校の設置に力を入れた。
桜南社
丹羽精蔵 にわせいぞう  1839(天保10)年〜1868(慶応4・明治元)年
明治維新の勤皇の志士です。
三原浅野氏の家臣丹羽勇の子として生まれました。
幼いころから、学問・武芸に優れていました。18歳のとき江戸へ行き、千葉周作、斉藤弥九郎の弟子になって武術の腕を磨き、三原に帰って広島藩の師範となりました。
1863(文久3)年に、朝廷監察使正親町少将が三原を通行する際、東野村(現在の糸崎)にある砲台をみてまわりましたが、そのとき精蔵が警護につきました。その後、巡視の一行が長州(山口県) へ行き京都に帰るまで、警護のため同行しました。
精蔵は、明治維新の志士として名高く、土佐(高知県)の坂本龍馬や長州の高杉晋作など多くの志士と親交を深め世の中を新しく変える心意気をもりあげていきました。
明治維新では、たびたび危険なめにあいながら、同士とともに活躍しますがさいごには京都の旅館で暗殺されました。
まだ30歳の若さでした。
※明治維新=江戸幕府の政治から、天皇中心の新しい政府による近代国家を成立させた時代
倉橋誠太 くらはしせいた  1845(弘化2)年〜1934(昭和9)年
剣術・槍術・砲術の優れた武術家です。
三原浅野氏の家臣倉橋六藤太の子として、城内二之丸邸で生まれました。
幼いときに、城内の明善堂で宇都宮龍山から学問を学びました。剣術は、指南番の荒木千万人について鍛えられ信抜流剣法のすべてを授かり、その力が認められました。
17歳のときに主人の命令により、槍術指南番の佐分利源五左衛門に槍の教えを受け、その後、佐分利流槍術のあとを継ぎました。
また、早くから勤皇の志をたて、遺書をおいて京都に行き、世の中を新しく変えていこうとする天誅組に入って活動しました。
明治時代に、佐分利流槍術を天皇の前で模範演技したこともありました。
全国的な大会では、京都武徳殿演武に毎年出場して勝利し、数々の賞を受けています。1924(大正13)年には、槍術範士の称号が与えられました。
砲術においても、榊山流砲術の使い手として優秀でした。
佐分利流槍術下段ノ型 佐分利流槍術太刀合下段ノ型
高楠順次郎 たかくすじゅんじろう  1866(慶応2)年〜1945(昭和20)年
仏教学者で、文化勲章を受賞した人です。
御調郡篝村(現在の三原市八幡町)の沢井家に生まれました。小学校を卒業したあと、三原にある漢学塾の桜南舎に入り、長谷川桜南に学びました。
その後、京都にある西本願寺立京都普通教校に入学しました。在学中に神戸市の高楠家の目にとまり、養子になりました。
1889(明治22)年に京都の学校を卒業、翌年にはイギリスのオックスフォード大学に、留学し梵文学を学びました。つづいてドイツやフランスで勉学にはげみ、帰国後は、東京帝国大学(現在の東京大学)の梵語の講師・教授として定年までの30年間教壇に立ちました。その間、東京外国語大学の初代校長、帝国学士院会員を勤め、また武蔵野女子学院を創立するなど教育界で活躍しました。
とくに彼の功績は、インド哲学を日本に広め、仏教の発展に貢献したことですが、なかでも「大正新脩大蔵経」の完成、「南伝大蔵経」の刊行、フランス語の仏教辞典の編さんなどにみられます。
1944(昭和19)年、これらの功績により文化勲章を受賞しました。 スポーツでも、明治の初めころ日本人としては最初に、テニスを新しい競技としてはじめた人たちのひとりと伝えられています。
※梵語=古代インドの文章語。サンスクリットともいう。
花井卓蔵 はないたくぞう  1868(明治元)年〜1931(昭和6)年
法学博士で弁護士や政治家として活躍した人です。
御調郡三原町(現在の三原市)で生まれました。
10歳のとき、東京の学校に進学しましたが、学校に納めるお金に困り、13歳で退学し三原に帰りました。帰郷後は小学校の教員をしながら長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学びました。
16歳のとき、ふたたび上京し、苦学しながら英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業しました。
23歳の若さで弁護士試験に優秀な成績で合格し、以後弁護士の第一人者として生涯を通じて法律をより正しくしていくことに尽くした功績は大きなものでした。
また雄弁家で、人々にうったえる力や説得力があり、日比谷焼き討ち事件、足尾銅山労働争議、大逆(幸徳)事件など、1万件にもおよぶ事件に弁護士として活躍しました。
政治家としても、31歳で衆議院議員に初めて当選し、以後約20年間衆議院議員や衆議院副議長として、1922(大正11)年から亡くなるまでは貴族院議員として、普通選挙法をはじめ多くの法律の実現や改正などに尽力しました。
1951年から60年代(昭和26〜44年)にかけ、雄弁家であった卓蔵にならって、広島県下や三原市近辺の中学生を対象にした「花井杯弁論大会」が催されたこともありました。 三原市文化会館の玄関前には、花井卓蔵先生を讃える会によって胸像が建てられています。
沢井常四郎 さわいつねしろう  1871(明治4)年〜1949(昭和24)年
郷土史家で三原市立図書館の生みの親です。
御調郡篝村(現在の三原市八幡町)の沢井家に生まれました。兄の高楠順次郎博士をはじめ弟は医学博士など兄弟みな各界で活躍しました。常四郎は早くから教育界に志し、20歳で教員の資格をとり、三原をはしめ県内や岡山県の小・中学校・師範学校で、多くの生徒を指導しました。
1924(大正13)年に定年退職し、三原の本町に住むことになりました。沢井家には、そのころ約4000冊の書籍がありましたが、常四郎はこの書籍をすべて館町に家を借りてそこに移し、公立図書館がなかった三原町に私立図書館としてみんなに開放しました。
同じ年に三原町は、公立図書館の設立許可をもらいましたが、三原町に蔵書や予算が少ないことなどで、すぐには建設されませんでした。1930(昭和5)年にやっと三原町立図書館の建設工事が始まりますが、この間、三原町は常四郎を名目の三原図書館長に任命します。建設までの沢井館長の努力はひとかたならず、135名の住民有志より建設寄付を募集した苦労は大変なものでした。その上、私立図書館蔵書もすべて新しくできた図書館に寄贈され、郷土史家としての資料を集めたり、多くの写本を完成させるなど、言葉につくせないほどの功績がありました。三原市立図書館は彼の遺産をいってよいものです。
生涯の後半は、郷土史の編さんと図書館の整備に身を投げ出し、多くの著書も残しています。
主なものに「御調八幡と八幡荘」「御調郡誌編述」「増補三原志稿」があります。

旧三原市立図書館
渡辺哲信 わたなべてっしん  1874(明治7)〜1958(昭和33)年
僧侶であり、明治の世界探検家です。
三原西町にある浄念寺に生まれました。
1890(明治23)年に広島中学校を卒業後、京都の西本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に入学し、僧侶になるための勉学に励みました。
哲信が在学中に西本願寺で運動会があった時のこたです。大勢の中でとくに目立った3人の学生が、大谷光端(のちの西本願寺の門主)の目に止まりました。
大谷光端は、以前から世界探検隊組織の大きな計画を立てていましたので、隊員にこの3人の学生を選びました。その中の一人に哲信がいました。
哲信はこのとき23歳でした。これからすぐにモスクワへ行けと言われたときは、びっくりしてこれからどうしたらいいものかと、驚きめんくらったと後日思い出を語っています。
以後、世界探検隊の一員としてエジプトに行き、また中国では長期間滞在し、ここからインドや中央アジアの各地を旅行しました。
哲信が大谷家からいかに大事にされていたかは、光端兄弟からの招待や大谷家の人々からの寄せ書きからでも、よく分かります。
現在、浄念寺に残っているノートの中に、インド紀行のスケッチがあり、英文、日本文の説明がついていて、当時のことを知ることができます。
龍谷大学の先生が、大学の図書館に浄念寺から持ち帰った日記は、梵語文で書かれていて貴重なものだそうです。
童謡詩人である武内俊子は、哲信の姉の子にあたります。
清水南山 しみずなんざん  1875(明治8)年〜1948(昭和23)年
日本で名高い彫金家です。
豊田郡能地村(現在の三原市幸崎町能地)に生まれました。名前は亀蔵といいます。子どものころから絵を描くことが好きでした。
1891(明治24)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の絵画科(日本画)へ入学しましたが、同じクラスの菱田春草の絵をみて、とても自分の力は及ばないと思い、途中から彫金科に編入しました。
1896(明治29)年、彫金科を卒業し、研究科に残り加納夏雄、海野勝珉に、そしてその後、塑像科に入学し、藤田文蔵に学びまいた。研究科終了後は独立して彫金に励みました。
1909(明治42)年に、香川県立高松工芸学校に勤めましたが、6年後に病気のため退職しました。この機会に四国八十八か所の寺を巡礼し、その後、奈良に住んで法隆寺など古美術の研究にうちこみました。
ふたたび上京し、1919(大正8)年から1945(昭和20)年まで母校の東京美術学校の教授として、学生の指導にあたりました。この間、帝室技芸員、日本彫金会会長、帝国美術院会員として、彫金界に偉大な貢献をしました。
作品は、帝展などの展覧会に出品し、優秀な作品を多く残しています。その作風伝統の技法を大切にした格調の高いもので、なかでも「梅花図鍍金印櫃」は、代表的な作品です。
南山は、日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄にあたり、平山郁夫が少年時代に、画家になることをすすめた人でもあります。
※彫金=金属の鏨などで彫刻をすること。
彫金 梅花図鍍金印櫃
高さ 13.6cm
東京国立博物館所蔵
高中惣六 たかなかそうろく  1899(明治32)年〜1974(昭和49)年
漆工芸家です。
現在の因島市で生まれました。
1917(大正6)年に、宮城県立工業学校を卒業後、工芸技術を志し石井士口という人に教えをうけ、漆工芸家としての道に入りました。
1923(大正12)年、皇居の建物の修理のために、漆工芸技術者として奉仕活動をしました。
同じ年に関東大震災のため帰郷し、三原に住むことになりました。
以後、備後地方(広島県の東部)において、漆工芸愛好家の興味や関心を高め、漆工芸の発展の基をきずきました。
その間、展覧会などにも作品を出品して、入選、特賞を受賞し、審査員としても活躍しています。
1940(昭和15)年には、戦時中で自由に使用できなかった貴重な金を、使用してもよいとの国からの許可をもらい、制作活動に役立てました。
1971(昭和46)年、「山陽新聞文化功労賞」を受賞しています。
乾漆 輪花破笠紋干菓子器
径 23cm
個人所蔵
竹根春草蒔絵棗
高さ 7.0cm
個人所蔵
田坂具隆 たさかともたか  1902(明治35)年〜1974(昭和49)年
映画監督です。豊田郡沼田東村(現在の三原市沼田東町)に生まれました。
京都の第三高等学校(現在の京都大学)に進学しましたが、家庭の事情で中途退学し、そのあと小さな新聞社の記者をしました。
1924(大正13)年に、映画会社の日活撮影所へ入社し、映画製作の助監督になり、3年目には早くも監督に昇進しました。
この頃の作品には、「阿里山の侠児」「この母を見よ」「春と娘」「心の日月」などがあり、様々な分野の映画を発表して将来を期待されました。
一時期、日活を退職していましたが、数年後に復帰してからは益々実力を発揮しました。
とくに作家山本有三の「真実一路」「路傍の石」という作品は、ひとりひとりの人間を大切にする田坂監督の真面目な人柄を反映した、代表的なすばらしい作品でした。また戦争映画の「五人の斥候兵」「土と兵隊」では、戦う兵隊の人間らしさの表現に、あたたかい眼を注ぐことを忘れませんでした。
1945(昭和20)年に、広島の部隊で原爆にあい、戦後は長い闘病生活を送りました。
再起後は、原爆をテーマにした「長崎の歌は忘れじ」をはじめ、「女中っ子」「陽のあたる坂道」などの力作を発表しています。
その後、東映に入り「親鸞」「ちいさこべ」「五番町夕霧楼」「湖の琴」などの名作を残して、晩年をかざりました。
武内俊子 たけうちとしこ  1905(明治38)年〜1945(昭和20)年
童謡詩人です。現在の三原市西町にある浄念寺に生まれました。
広島女子専門学校(現在の広島女子大学)に進学しましたが、中途で退学しました。
その後、結婚をして東京の世田谷という所に住むようになります。
1929(昭和4)年ころから、童謡や童話の創作をはじめるようになりました。恵まれた家庭環境の中で創作された、子どもの心の清らかさを歌うやさしい詩が、詩人の野口雨情に認められ、それからは先生として野口雨情に教えをうけました。
その後、当時の代表的な子ども向きの本『コドモノクニ』『幼年倶楽部』に、つぎつぎと作品を発表しました。
また、1937(昭和12)年の「かもめの水兵さん」につづいて「リンゴのヒトリゴト」「船頭さん」など多くの童謡が、河村光陽らのすぐれた作曲でレコード化され、全国の子どもたちに広く愛唱されるようになりました。
著書には、詩集『風』、童謡集『赤い帽子・白い帽子』、『武内俊子童謡集』などがあります。
三原市宮浦公園には、「かもめの水兵さん」の童謡碑が建てられています。
僧侶であり世界探検家の渡辺哲信は、俊子の叔父にあたります。
池田快造 いけだかいぞう  1911(明治44)年〜1944(昭和19)年
洋画家です。現在の三原市西町一丁目で生まれました。
1923(大正12)年に、広島県立府中中学校(現在の府中高校)に入学し、そこで、美術教師の藤原覚一(のちの三原市立図書館長)に学び大きな影響をうけました。
1931(昭和6)年に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)油画科に入学します。そこでは藤島教室に入り、藤島武二の指導のもとに、光風会の画家の中でも最も優秀な才能をもっている画家として、将来を期待されました。
美術学校在学中からその才能は開花し、第25回光風会展に作品「埴輪」を出品しF氏賞を、つぎの年には「昇天」で光風会賞を、1940(昭和15)年の出品作「運河」では光風会特賞を受賞するなど、洋画美術での活躍はすばらしいものでした。
特賞を受賞した年の秋、腎臓病のため手術をし、退院後は三原に帰り療養、制作に専念します。
しかし、1944(昭和19)年に、結核により33歳の若さで三原の自宅で亡くなりました。
三原市には、彼の作品が多く残されており、遺作展や記念展が開催されました。
昇天150号
新藤兼人 しんどうかねと  1912(明治45)年〜
映画監督であり脚本家です。
生まれたところは、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区)です。
1934(昭和9)年に、映画会社の新興キネマ京都撮影所に入社して、溝口健二監督の指導をうけましたが、10年後には松竹大船撮影所に入社し脚本部員となりました。
1950(昭和25)年、松竹を退社し、その年に独立プロダクション・近代映画協会を設立しました。
翌年、映画『愛妻物語』を、監督として初めて製作しました。
同じ年に、マキノ正博監督の『待ちぼうけの女』と、吉村公三郎の『偽れる盛装』の脚本を書き、脚本家としてゆるぎない地位を確立しました。
1960(昭和35)年には、自然と人間の闘いをきびしい表現で描いた台詞のない無言の映画詩『裸の島』で、モスクワ国際映画祭やメルボルン映画祭のグランプリを受賞し、世界60数カ国で上映され、世界中で好評を受けました。
1976(昭和51)年には、長い間独立プロ活動の業績で朝日賞を受賞、とくに1995(平成7)年公開の『午後の遺言状』は、日本アカデミー賞最優秀監督賞をはじめ、この年の映画賞を独占しました。その後、スポニチ文化芸術大賞グランプリ、モントリオール国際映画特別賞を受賞するなど評価は高く、国際的にも認められました。
三原では、『裸の島』(撮影場所は三原沖の宿祢島で、出演俳優は乙羽信子と殿山泰司2名だけ)、『らくがき黒板』(附属三原学園の児童が出演)など4本の映画を製作し、三原は第二の故郷と言われています。
2002(平成14)年に、文化勲章を受章しました。同じ年に広島県名誉県民に、翌年には三原最初の名誉市民となりました。
池田敬子 いけだけいこ  1933(昭和8)年〜
日本を代表する国際的な体操選手です。旧姓は田中といいます。
豊田郡鷺浦村(現在の三原市鷺浦町)に生まれました。
広島県立三原高等学校時代から、体操競技(当時の器械体操)にすぐれた素質がありました。
1952(昭和27)年に、日本体育大学に進学し、翌年には全日本選手権大会で優勝しました。
1954(昭和29)年には、日本体操界が初めて女子選手を国際大会に派遣した、ローマでの世界選手権大会の平均台で金メダルを獲得し、個人総合でも8位に入賞するというすばらしい成績でした。
でも8位に入賞するというすばらしい成績でした。
その後、1956(昭和31)年のメルボルンのオリンピック大会に続きローマ、東京(団体で銅メダル)とオリンピックに3回連続出場し、また、4回連続出場した世界選手権でもメダルを獲得、全日本選手権では10回優勝し、長い間体操界の第一人者でした。
この間、結婚、2児の出産、育児と、36歳で現役を退くまで世界の第一線で活躍し、日本女子体操界に華々しい足跡を残しました。
その後、日本体育大学教授、副学長として後進の育成に努め、また、幼児や小学生を対象に体操クラブを開くなど、世界に通用する体操競技者のすそのを広げ、体操界の向上に大きな功績をあげています。
2002(平成14)年には、国際体操殿堂入りを、翌年には、三原市初の名誉市民になりました。
大田 尭 おおたたかし  1918(大正7)年〜
大正7年生まれ、戦後の新教育の実践的研究を、本郷小学校を中心に実施され、地域に根ざした教育「本郷地域教育計画」として、昭和22年から昭和28年頃まで参画・指導された。
 その後、東京大学教授、日本教育学会会長等を歴任され、平成12年6月、「少年・少女の家構想」として、ほんごう子ども図書館の建設に尽力され、ボランティアによる運営や活動をとおして、広く教育文化の進展に寄与され、郷土の誇りである。
古川 喬雄 ふるかわたかお  1913(大正2)年〜2002(平成14)年
 大正2年生まれ、大和町出身、終戦直後、尾道市で食品製造業を興し、真空パックの研究を行い、昭和32年、国産初の真空包装機を誕生させる。昭和47年には世界一の高速高性能のロータリー真空包装機の開発に成功するなど、常に技術開発に意欲的に取り組んだ。古川製作所の製品は、海外でも高く評価され、日本産業界に大きく貢献している。
 また旧大和町に対し多額の金員を寄付されており、幅広い活躍は郷土の誇りである。
 平成14年12月、89歳で逝去される。
多田 太朗 ただたろう  1897(明治30)年〜1995(平成7)年
 明治30年生まれ、戦前から福山市に転居されるまでの38年間にわたり、本郷町において開業医として多くの町民から慕われ、率先して地域医療発展のために尽くされた功績により、勲五等瑞宝章並びに紺綬褒章を受章されている。
 一方、合併まもない昭和32年10月、初代古川町政の後を継いで、第二代本郷町長に就任して、以後の本郷町発展の礎を築いた。福山市へ転出後も、多くの患者や町民から慕われ、尋ねる人があとを断たなかったほどである。
 また、芸術を通して世界平和にも貢献されておられ、広く文化社会の振興、地方自治の振興に寄与されており、郷土の誇りである。
 平成7年4月、98歳で逝去される。
村田 兆治 むらたちょうじ  1949(昭和24)年〜
 昭和24年生まれ、昭和43年3月、東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリンズ)に入団するや、1年目で初完投・初勝利を飾って以後、独特の「マサカリ投法」で最優秀選手賞、奪三振王、MVPなどを受賞し、輝かしい活躍をされた。
 昭和57年、右腕ヒジの故障で一旦現役を終え、渡米治療の後、2年(818日)ぶりに一軍登録、1073日ぶりに勝利投手となる。カムバック後は「サンデー兆治」の異名をとり、自分の限界に挑戦し続ける姿を通じ、広く社会の模範となることから、東京都都民文化栄誉賞を受賞される。
 現在は、野球評論家としてテレビ・ラジオでの解説や、全国各地での講演、野球教室の開催などのほか、野球を通して離島の人々とふれあい、島おこしにも貢献され、広く社会文化の振興に寄与されており、郷土の誇りである。