三原城跡
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三原城は、毛利元就の三男 小早川隆景により、永禄10年(1567年)に築城された城です。東は湧原川から西は現在の臥龍橋付近まで約900m、南北に約700m、この中に本丸、二之丸、三之丸、そして二層三層の隅櫓32、城門14があったといわれています。
当時は、その姿がまるで、海に浮いているように見えたため「浮城」と呼ばれ、豊臣秀吉、徳川家康もここに泊まったと言われています。
三原を代表する祭り「やっさ祭り」で披露されるやっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは"やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
現在は、石垣とお堀が残り、周辺は、公園として整備されています。
天主台石垣
日本一の規模をもつこの天主台は広島城の天守閣なら、6つも入る広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以来全国に流行しました。然しこの三原城築城の時には、まだ天守閣を造る思想のない時代であったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の築城です。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人では真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、古代の石積形式を400年経た今でも立派に伝えています。
1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。
しかし、破損個所は・・・「元のごとくなりがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。
本丸中門跡
ペアシティ西館にの西側に濠があります。
西館の階段を下ったところに本丸中門跡の石柱が建っています。
この位置には、現在、三原ライオンズクラブが、三原城の説明のための絵図と、その側面に、次のような漢詩を刻んでいます。
[訳]
浮城は昔、山陽地方を治めていた小早川隆景によって造られた城である。現在残っているものは、僅かばかりであるが、石垣などによって立派な城であることを認める。金湯とは金城湯地の略である。
太刀掛呂山先生によって作詩された漢詩で起承転結がはっきりと示され、三原城を懐古してみる唯一の七言絶句の詩である。
船入櫓
三原市福祉会館の東側に大きな石垣があります。
これが船入櫓と呼ばれています。
石垣の高さは4間(約7.2m)で船入の入口幅は、12間(約21.6m)船入の広さ20間(約36m)あって深さは1丈(約3m)で北の方へのびています。
この船入櫓石垣の築き方は、粗雑にできているようにもみられますが、干潮・満潮に堪えるようにと工夫されています。
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| ▲三原市重要文化財 岡岷山筆絹本著色登覧画図(妙正寺所蔵) |
▲三原城図跡 クリックすると拡大画像をご覧いただけます |
〒723-0004 広島県三原市館町602-17
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