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- 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景
毛利元就の「三矢の訓(みつやのおしえ)」と
三原の礎を築いた知将・小早川隆景
三原の歴史を語る上で欠かせない人物といえば、1567(永禄10)年にこの地に三原城を築いた戦国武将・小早川隆景です。隆景は、戦国時代に中国地方の覇者として君臨した毛利元就の三男として生まれ、毛利家にまつわる有名な逸話「三矢の訓(みつやのおしえ)」のうちの一本として本家・毛利を支えました。同時代を生き、天下人となった豊臣秀吉や、その軍師・黒田官兵衛などからも知将と称えられ重用された隆景。三原が誇る偉大なる賢人・小早川隆景の足跡をたどってみましょう。
中国地方の覇者に君臨した戦国大名の父・毛利元就
- 二人の息子を養子に出し、中国制覇の足がかりに
- 戦国時代に10カ国120万石を支配し、中国地方の覇者となった毛利元就。戦国大名には成り上がりが多い印象ですが、毛利氏のルーツは名門で、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣・大江広元の子孫が毛利姓を名乗り、現在の安芸高田市吉田町付近に移住してきたのがはじまりといわれています。ただし、元就が家督を継いだ当初は、郡山城を拠点に安芸国吉田荘(あきのくによしだのしょう)一帯を支配する国人(こくじん)と呼ばれる小領主にすぎませんでした。
当時の中国地方は、日本海に近い山陰方面を支配する尼子氏と、瀬戸内海側の山陽から九州北部までを支配する大内氏が勢力を競い合っていました。毛利氏をはじめとする安芸国、備後国の小領主たちは、尼子領と大内領の間に挟まれ、どちらにつけば自らの領地を守れるか、常に厳しい選択を迫られていたのです。
大内氏と手を組んだ元就は、1540(天文9)年に尼子氏から攻撃を受けますが、居城であった郡山城に立て籠もり応戦。さらには大内氏の援軍も得て、尼子氏を撃退します。この郡山合戦で名を挙げ、勢力を拡大していきました。その過程において、元就がとったのは養子戦略です。まず、瀬戸内海に強力な水軍を持っていた小早川氏に三男の隆景を、そして安芸・石見を拠点にしていた吉川氏へ次男の元春を養子として送り込み家を継がせ、山陽・山陰方面への足場を固めていきます。
毛利元就の「三矢の訓(みつやのおしえ)」
- 三兄弟に与えた戦国の世を生きる知恵
- 小早川隆景は、1533(天文2)年に毛利元就の三男として生まれました。1年後の天文3年には織田信長が、4年後の天文6年には豊臣秀吉が、9年後の天文11年には徳川家康が生まれていることから、日本各地で群雄が割拠し、天下統一を目指した時代に隆景も生を受けたことになります。
- 激動の時代を生きるため、父・元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた教訓が有名な逸話「三矢の訓」でした。三兄弟に一本ずつ矢を持たせて、「一本なら簡単に折れてしまうが、三本束ねれば簡単には折ることはできない。三本の矢のように三人が力を合わせれば毛利は安泰なのだ」と一家の結束を誓わせました。
これは実はのちの江戸時代に作られた話なのですが、1557(弘治3)年に元就が毛利家存続のために三子に与えた書状(教訓状)がもとになっています。書状では、毛利家を継いだ隆元を中心に、吉川家を継いだ元春、そして小早川家を継いだ隆景が両翼を担う、いわゆる「毛利両川体制」の構築を諭して、血縁を軸とした協力体制を作り上げたのです。
中国制覇へのターニングポイントとなった厳島合戦
- 戦国史に残る鮮やかな奇襲戦で大軍を撃破!
- 養子戦略により南北を固め、西の大内氏と連携しながら勢力を拡大して、ついに安芸国統一を果たした元就ですが、そこへターニングポイントが訪れます。尼子氏との戦いで共闘してきた大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた:1521〜1555)がクーデターを起こし、主君・大内氏を滅ぼしてしまったのです。こうした大内氏内部の混乱に乗じ、元就は厳島へ侵攻。晴賢との対立姿勢を明確にします。
戦力には圧倒的な差がありました。陶軍約2万に対して、毛利軍は3千ほど。元就は息子たちに出陣を命じ、厳島に宮尾城という城を築きます。しかし、これはおとりの城で、この場所に敵の大軍を押し込め、身動きが取れなくなる隙に取り囲んで退路を塞ぎ攻め立てようという作戦でした。さらに、「今、陶軍に攻められたら困る」と嘘の情報を流したり、家臣に晴賢と内通させ、時を見て毛利を裏切るという偽の書状を出したりするなど、あらゆる手段を使って、陶軍を宮尾城へとおびき寄せようとします。
1555(弘治元)年10月1日、陶軍はついに厳島へ上陸。これに対し、厳島の東側からは毛利元就を総大将に長男・隆元と次男・吉川元春が、西側からは三男・小早川隆景の軍が宮尾城を占拠した陶軍を挟み撃ちにします。これはのちに「日本三大奇襲戦」に数えられるほど鮮烈な戦いとなりましたが、ここで最も効果的な働きをしたのが小早川隆景でした。小早川家はもともと水軍を持っていましたが、必勝の思いで厳島合戦に臨むべく、隆景は瀬戸内の制海権を握る村上水軍を味方につけようと奔走し、軍船300隻を1日だけ貸してもらうことに成功。海上を封鎖し、陶軍を壊滅させるという大手柄を立てたのです。
毛利の「両川(りょうせん)」体制
- 中国地方を統一するも、天下の戦に巻き込まれていく
- 厳島合戦で陶氏を破り、その後も残る大内氏の勢力を平定した元就は、家督を長男・隆元に譲りますが、1563(永禄6)年にその隆元が急死。隆元の子の輝元が毛利の家督を継ぐと、次男の吉川元春と三男の小早川隆景の二人が、甥にあたる毛利家当主・輝元を力強くバックアップするようになりました。武勇に優れた元春と、父・元就の知略の才を最も受け継いだといわれる隆景。ともに姓に「川」の字があることから、これを毛利の「両川」と呼び、特に隆景は元就の死後、まだ若かった輝元の教育係として毛利のために力を尽くします。
両川体制の活躍により、西の大内氏、東の尼子氏の勢力を一掃することに成功した毛利氏は中国地方を統一し、120万石の大大名にのし上がります。しかし1571(元亀2)年、「毛利は天下の争いに関わってはならぬ」という遺言を残して元就が死去。ちょうどその頃、東海から畿内にかけて勢力を伸ばしてきた織田信長と、室町幕府最後の将軍・足利義昭の対立が顕在化し、畿内地方に緊張が高まると、京都を追われた義昭が毛利領内へ逃げ込んだため、元就の遺言に反して、毛利家も天下の争いに深く関わっていくことになるのです。
義昭の呼びかけに応じて、はじめに反信長の狼煙を上げたのは石山本願寺でした。義昭の要請を受けた毛利家も、配下の水軍を使って海路から石山本願寺に食料・武器・弾薬などを補給。織田軍はこの補給路を断つべく、毛利軍と衝突します。1576(天正4)年の第一次木津川口合戦では、小早川水軍と村上水軍の活躍により毛利軍が圧勝しましたが、この戦いに敗れた信長は、毛利の強力な水軍に対抗するため、九鬼水軍の九鬼嘉隆(くきよしたか)に鉄でできた鉄甲船の建造を命じ周到な準備を整えました。2年後の1578(天正6)年、第二次木津川口合戦で両軍は再び激突。毛利軍は織田軍に大敗を喫します。石山本願寺を率いた顕如(けんにょ)は、その2年後の1580(天正8)年に信長と和解し大阪を退却。1591(天正19)年には、本能寺の変後に畿内地方の実権を握った羽柴秀吉から、京都に寺地(現西本願寺)を与えられました。
天下の情勢を見極めた小早川隆景の知略
- 秀吉の天下取りに協力するも、あくまで毛利の家臣
- 反信長の狼煙を上げた包囲網は、朝廷による仲介や上杉謙信の死などによって、徐々に勢力が衰えていきましたが、信長は配下の羽柴秀吉に中国地方制圧を命じたため、毛利領内には次々と織田の軍勢が押し寄せてくるようになりました。
最大の戦となったのは、1582(天正10)年の備中高松城の戦いです。毛利方についた備中高松城城主・清水宗治を助けるため、毛利輝元をはじめ、吉川元春、小早川隆景も3万の兵を率いて出陣しますが、戦いの途中、明智光秀による本能寺の変が起こり信長が死去すると、秀吉は急きょ、毛利と和睦を講じ光秀を討つために有名な「中国大返し」を敢行。和議ののち「信長死す」の知らせを受けた元春は、秀吉軍を追撃することを主張しましたが、隆景が秀吉に勢いがあることを察し、これを制止します。それだけではなく、秀吉に毛利の軍旗まで貸し与えて、秀吉の光秀討伐を手助けしたのでした。
隆景の目論見通り、光秀を討ち、その後の織田家の権力争いであった賤ヶ岳の戦いにも勝利した秀吉は、天下を大きく手繰りよせます。隆景も秀吉の天下取りに積極的に協力するようになり、四国攻めや九州攻めに参加し、戦功を立てることで秀吉からの信頼を確固たるものにしました。秀吉も隆景の才能を見抜き、四国攻めで得た伊予国を隆景に与えて、直属の独立大名にしようと画策しますが、隆景はあくまで毛利家の家臣であるという立場をわきまえ、褒美をまずは自らの主君である毛利輝元に賜るよう懇願したといいます。
先を見通すことに長けた隆景は、天下人となった秀吉から気に入られても決して奢ることなく、常に毛利家が安泰でいられることを考え、行動していました。1591(天正19)年に輝元が広島城を築城した際には、秀吉の軍師である黒田官兵衛に城の建設地についての助言を求めていますが、その言葉に従って建てられた城に秀吉が訪れた際、「こんな城は水攻めにしてしまえばひとたまりもない」と言われ、輝元は官兵衛に騙されたとカンカンに怒りました。これを聞いた隆景は、「強固な城を築けば、秀吉から謀反の恐れありと目をつけられることになるので、これで良いのだ」と言い、甥の輝元を諌めたそうです。
すべては毛利家のために
- 戦国の世の常を、深謀遠慮で乗り切る
- 中国大返しに協力して以来、隆景と秀吉は良好な関係を保ち、隆景は甥の輝元とともに1595(文禄4)年の関白・豊臣秀次の切腹事件後に五大老の一人に就任しています。また、秀吉に天下を取らせた男として知られる軍師・黒田官兵衛とも、隆景は度々書状をやり取りして交友を深めていました。隆景が亡くなった時には、官兵衛が「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたといわれています。このように日本を動かした大物たちから高い信頼を得ていた隆景を、ポルトガルのカトリック宣教師で、信長や秀吉と会見して当時の日本の様子を著作『日本史』に残したルイス・フロイス(1532〜1597)も「統治者として非常に優れた人物である」と記しています。
隆景はまた、毛利家の跡取り問題においてもその才覚を十分に発揮し、毛利家存続の危機を救ったといわれています。子宝に恵まれなかった天下人・豊臣秀吉は、甥である豊臣秀次や羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)を後継者として育てていましたが、1593(文禄2)年に実子となる豊臣秀頼が生まれると、1595(文禄4)年には秀次の切腹事件などがあり、豊臣家の後継者問題が混迷を極めます。すると、当時同様に子がなかった毛利輝元に、秀俊を養子にしては?という話が持ち上がりました。そこで、毛利本家に秀吉の血が入ることを恐れた隆景は、自分にも子がいなかったこともあり、秀俊をぜひ小早川家の養子として迎えたいと申し出ることにしたのです。隆景の行動の根本にあったのは、常に父・元就から授かった「すべては毛利のために」という思いであったと考えられます。小早川家の養子となった秀俊は、名を秀秋と改め、関ヶ原の合戦では東軍側に内通して勝利をもたらし、岡山城主となりましたが、2年後に亡くなります。ここに名門・小早川家は断絶となりますが、明治に再興されました。
三原発展の礎となった三原城を築く
- 「浮城」と呼ばれた名城
- 隆景は12歳で安芸の竹原小早川家の養子となり、のちの1551(天文20)年には19歳で小早川本家である沼田小早川家の家督を継ぎ、居城であった高山城に入城します。しかし、1年後には高山城から沼田川を隔てた向こう岸に新高山城を築き本拠地としました。
- 1567(永禄10)年、瀬戸内海の交易路としての有用性に気づいた隆景は、山城であった新高山城を捨て、三原の湾内に浮かぶ大島、小島をつなぐ三原城を築きます。その規模は東西約900m、南北約700mの大きさを誇る名城でした。また、この城は満潮時に城が海に浮かんでいるように見えることから「浮城」とも呼ばれ、その美しさに天下人・豊臣秀吉も感激したといわれています。
1596(慶長元)年には、隆景はこの地を隠居所と定め、その翌年に三原城内で死去。築城以来、一度も兵火の経験を持たなかった三原城は、小早川氏以降、福島氏、浅野氏の支城として栄えました。交通網が整備された現代、その城の遺構は山陽新幹線三原駅の下に眠っています。高架下をはじめ、市内のあちらこちらでは城の石垣の一部など戦国時代の息吹を垣間見ることができるので、三原にお越しの際はぜひ探索してみてはいかがでしょう。